楽観視できない「インドネシア経済」の現状と今後
- Exclusive writer
- 7月24日
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更新日:8月7日

「成長市場」の幻想と、今見るべきリアルな課題とは
「人口2.8億人の巨大マーケット」「東南アジアのハブ」「今こそ進出のチャンス」――こうしたフレーズを、皆さんも一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。確かに、インドネシアはアジアでも有数の規模を持つ新興市場です。しかし、私は現地の投資家や経営者、実務家と話す中で、こうした「楽観論」に対して強い違和感を抱いてきました。彼らの多くは、「今後3〜4年、インドネシア経済は厳しい局面が続くだろう」と見ています。
本稿では、その理由と背景を、多角的なデータと識者の見解をもとに整理し、今のインドネシア経済のリアルをお伝えしたいと思います。
成長率5%に張り付くインドネシア経済の「停滞」
インドネシアは2010年代の初めから、ほぼ一貫して年間5%前後の成長を続けています。この数値だけを見ると「安定成長」とも映りますが、アジア経済研究所名誉研究員の佐藤百合氏は「これは“成長の停滞”である」と明言します。かつてスハルト政権期の30年間は平均7%成長、ユドヨノ政権は約6%成長、ジョコウィ政権は5%成長。こうして徐々に成長率が低下してきたのが実情であり、「5%が当たり前」という現状に安住してはいけない、というわけです。
特に2025年第1四半期のGDP成長率は4.87%と、コロナ禍を除けば10年ぶりの低水準となりました。しかもこの期は、プラボウォ政権発足後、最初のフル・クォーター。新政権のスタートが景気減速と共に始まったことは、象徴的です。

投資と輸出の低迷、中間層の縮小が鮮明に
この成長停滞の背景には、いくつかの構造的要因があります。最大の要因は「投資の鈍化」です。2025年1〜3月期の投資成長率は2.1%と、過去10年で最も低調でした。ジョコウィ政権下で進められてきた工業化戦略、いわゆる「川下化(産業の付加価値強化)」も、政策の不透明さや鉱物ロイヤルティの引き上げ、資源価格の低迷などが重なり、民間投資の意欲を削いでいます。
もうひとつの重要な指標が、「中間層の縮小」です。中央統計庁の支出階層別統計によると、2019年から2024年の間に中間層の人口は減少し、脆弱層や貧困層が増加していることが明らかになっています。これは、内需を支える中間層の厚みが失われつつあることを意味し、国内市場の購買力にも陰りが見えていると言えるでしょう。
無料栄養食が象徴する「社会開発偏重」のリスク
新政権の象徴的な政策が、「無料栄養食(MBG:Makan Bergizi Gratis)」プログラムです。2025年から開始され、当初71兆ルピアだった予算が、さらに100兆ルピア上積みされて171兆ルピアに拡大。受給対象も最終的に8,000万人に拡張するとされています。
もちろん、貧困層や就学児童への栄養支援は重要です。しかし、注目すべきはその資金源です。国家予算の効率化という名のもとで、中央・地方の予算が総額307兆ルピアも削減され、なかでも公共事業省の予算は8割カットされました。つまり、「インフラ開発」より「給食配布」を優先したのです。
問題は、それによる経済効果です。国家経済評議会の分析によれば、このプログラムがGDP成長を押し上げる効果は「せいぜい0.1%程度」とされています。これは、経済成長を重視するという政権公約と明らかに乖離しています。
政府系ファンド「ダナンタラ」の不透明性と限界
同時に、経済開発の中核を担うはずの新たなソブリン・ウェルス・ファンド「ダナンタラ(Danantara)」が発足しました。インフラや再生可能エネルギー、EV産業などへの投資を目指すとされていますが、そのガバナンスには多くの疑問が残ります。
まず、運用資金の一部が上記の予算削減分から拠出されていること。さらに、トップには大統領の側近であるロサン投資大臣が兼務で就任し、利益相反の懸念も。ダナンタラの経営陣にはポートフォリオ投資の専門家が多く、「リアルな産業開発を遂行できるのか」という不安の声も現地では上がっています。

賃金上昇と産業競争力の乖離
プラボウォ政権下では、2025年の最低賃金が6.5%引き上げられました。これはインフレ率(1%台)と名目成長率(約6%)を上回っており、産業界には強い不満が広がっています。しかも、労働力の6割が非正規雇用にあり、住宅ローンや社会保障からも排除されている現状では、最低賃金の引き上げが経済全体の活性化にはつながりにくい構造的な問題も残っています。
外交政策は「全方位中立」から「全方位緊密」へ
外交政策にも注目すべき変化があります。プラボウォ政権は「自由・積極外交(bebas aktif)」を継承するとしながら、ASEANだけでなくBRICSやOECD、さらにはロシア・中国・オーストラリアといった各国と軍事・経済面で急速に接近する「全方位緊密」路線を採用しています。
こうした一貫性に欠ける外交姿勢や、軍出身者の閣僚登用の増加は、一部では「軍事色の強い内政・外交の兆候」とも受け止められています。

人口ボーナス期を活かせるかが正念場
現在、インドネシアは生産年齢人口が68%を超え、人口ボーナスのピーク期にあります。しかし、投資が伸び悩み、労働市場の高スキル化も遅れている今、この貴重な時期を逸するリスクが懸念されています。
佐藤氏は、「この人口ボーナスを活かすには、投資喚起と人材の高度化が不可欠。今、その両方が遅れている」と警鐘を鳴らします。実際、スキルの低いまま海外に送り出される労働者の数は増加しており、違法就労や人権問題も深刻化しています。
結論:進出は「タイミング」と「戦略」がすべて
インドネシアは、長期的に見れば確かに魅力的な市場です。しかし、少なくとも今後2〜3年の間は、政府支出の構造転換、投資停滞、所得層の二極化、外的経済圧力など、多くの不確実性が横たわっています。
「インドネシア=成長市場」と無条件に信じて進出するのではなく、「今がそのタイミングなのか」「自社の強みはこの環境下で活かせるのか」を、冷静に判断するべき局面に来ていると、私は強く感じています。
とりわけ注視すべきは、8月に提出されるプラボウォ政権初の本格的な国家予算案(2026年度案)です。 この予算案において、社会政策と経済成長のどちらに重点を置くのか、投資促進にどれだけの具体策が盛り込まれるのかによって、インドネシア経済の中期的な方向性が見えてくるはずです。
(参考文献)
「2025年上半期インドネシア経済の現状と課題」、『よりどりインドネシア』第193号、2025年7月7日、松井和久
「プラボウォ政権の経済・社会・外交政策」、日本インドネシア協会第 146 回月例講演会(月刊インドネシア2025年7月号収蔵)、佐藤 百合